院長の独り言
Monologue

2010.12.26

私のクリスマス

我が家は私以外の家族はキリスト教のカトリックの洗礼を受けているので、クリスマスイヴは私も家族と一緒に教会に行きます。家族へのクリスマスプレゼントもなければご馳走やケーキを食べることもありません。診察終了後に軽い食事をして教会に向かいます。
 今年もカトリック教会に行って信者の人と一緒に讃美歌を歌いました。讃美歌はキリストの誕生を祝いながら歌うオペラようなものなので、キリストは貧しい馬小屋で人々を助けるために生まれてきて、その後はどんなに貧しい人も平等に神様に救われると説きました。それが当時の階級制度の中では上層階級の人々には不都合な思想で処刑されてしまったのです。ですからカトリックでは神社やお寺のような総代のような階級はなく、神様の元で全ての人が平等で、私の様な信者でないものでも誰でも丁重に扱ってくれます。
 毎年のことなのですが、私はクリスマスイブの讃美歌を歌うと涙が出てきます。カトリックの信者さんたちはおめでたいミサなのでみなさん笑顔で、泣いているのは私だけのようです。涙の理由ははっきりしないのですが、毎年のことで自分でも不思議に思っていました。
 今年のミサで冊子に書かれている言葉を読んで毎年流す涙の訳が分かり、普段よりも余計に泣いてしまいました。その言葉を紹介します。

 一日の始まりの時に
   神とその出会う人々に
     今日のあなたをささげ
        一日を閉じる時に
           神とそして出会った人々に
             ありがとう
               ごめんなさい
                 よろしくおねがいします
    と心の中で語りかける日々を重ねてまいりましょう

 一年の終わりにクリスマスがあります。その時に私を支援してくださりこの一年でお世話になった方々(家族、職員、患者さん、友人など)に感謝し、私の言葉や行動で迷惑をかけた方々にお詫びをし、一年間無事に過ごせたことに対して神仏に感謝して涙が出てくるのでした。ミサの間は一年間の様々な出来事が頭の中を駆け巡ります。自分の努力も大切ですが、偶然何かに守られている様な気がすることが度々あった一年をクリスマスイブに振り返ることができます。
 私は一年に2回教会に行きますが、もう一回行く正月のミサで、出会う人や神様(私はクリスチャンではないので人間を超えた大きなもの)に私の全てをささげることを誓うのです。ですから正月のミサでは全く涙が出てきません。
 どんなに努力して強い人でも所詮一人の人間なので、欲望もあれば競争もします。時には喧嘩もします。また、一生懸命に生きても力足らずに失敗もします。大切なことは誰しも未熟な人間であることを理解して、仏教徒であれば仏様に神道であれば神々に、キリスト教徒であればゼウスに身をゆだねることなのです。最もまずいのは自分の優秀さのみを信じて自分以外のものを信用せずに生きている人だと思います。確かに自分の努力によってかなりの道は開けてきます。ある程度の成功も得ることができるでしょう。しかし、それは一時的なもので長い人生での成功者にはなることができません。その様な失敗した人を沢山見てきた私の結論です。
 その言葉にあるように一日一日の始まりと終わりにおいても同じことが言えます。一日の終わりに無事に過ごせたことに感謝して、お世話になった人にありがとうと言い、心ならずも迷惑をかけた人に謝り、次の日の朝に神様やその日出会う人に私自身をささげて行きたいです。
 そう思うことで初めて、一生懸命に努力をするようになるのだと思います。この理念は自分の欲望から発生するエネルギーよりも崇高で長続きして、失敗しても悔いの残らない考え方です。生活の中で一生懸命にやっても会心の結果が出るのはほんのたまにで、いつもは後悔の連続で生きていることが多いのですから。
 人間は所詮人間で神にはなれません。どうしても時に愚かな行動をしてしまいます。周囲の人々に感謝して、そして神仏に感謝して自分の役割を理解して生きていくことが大切です。そのことがはっきり理解できた時に初めて、そのご褒美として周囲の人々がお世辞ではなく心から尊敬してくださるのだと思います。自分の小さな生活の中で、神様仏様に感謝しながら生きてみたいと思います。