院長の独り言
Monologue

2019.4.29

平成最後の独り言

いよいよ明日には平成最後の日を迎えます。今回は私の平成を振り返って見たいと思います。以前に私は9歳から10年毎に大きな出来事があると述べたことがあります。9歳で斜視の手術をして以来、医学に興味を持つようになって医師を志しました。19歳で土建会社を営んでい父が他界しました。私が医師になることに多大なる希望を持っていました。すでに医学部の2年生であったので少しは父に親孝行が出来たのかもしれませんが、母の弟つまり私の叔父が下手家に養子に来て会社を継ぎました。最初は父の遺産などもあって地盤もしっかりしていたので好調な経営でしたが、叔父が離婚して連れ子を2人連れた新しい妻と結婚したあたりから経営が傾いて来て、私が29歳の大学院時代に倒産して叔父たち家族は大阪に夜逃げをして、私の母が一人故郷の美郷町に残されて私と二人で残務整理を行いました。二人とも保証人にされていたので大変なストレスを抱えることになりました。
 昭和の最後の歳に家内と知り合い、すぐにこの人だと感じて1か月でプロポーズして平成元年に結婚しました。私が29歳の時です。お金がなかったので結納もわずかしか払えず、家内は洋服ダンスと整理ダンスだけをもって嫁に来てくれました。式は2人だけでハワイの安いツアーで行って、そのお金を帰ってからアルバイトを沢山やってカードで捻出したのを覚えています。私の西洋医学の師匠である小林祥泰先生ご夫妻のご媒酌で手作りの披露宴を行って、支払いはお祝いのお金で全てまかなえたので私には経営の才覚があるのではないかと感じました。実家の会社が黒字倒産で放漫経営による資金繰りを誤ったものであったので、それ以来バランスシートやキャッシュフローを徹底的に勉強しました。平成元年に津和野町の厚生連日原共存病院に赴任して、2年に病院長になりました。そこで経営のいろはを勉強して病院を立て直すことに成功しました。
 平成9年37歳の時に、私の大学院時代の上司であった藤原先生が寿生病院の院長をしておられて膵臓癌で逝去されたために、代わりに医局の人事で院長に赴任しました。わずか2年半でしたが、そこで介護保険制度が始まる時であったために、高齢者介護の最前線の病院で漢方薬を患者さんに投与して、多くの患者さんの免疫力がアップして感染症になりにくくなって薬代が200床の病院で年間4500万円が節約できたデータを仲間の医師と共に出して、漢方薬の使用が医療費の節減に寄与できることを証明しました。このデータは現在でも、漢方薬の薬価削除を企む財務省に毎年のように東洋学会から提出されています。
 平成11年39歳で現在の斐川中央クリニックを開業しました。最初は地域に根差したクリニックで多くの周辺の患者さんに来院してもらっていて、看取りも沢山行って地域医療の醍醐味を経験しました。
 平成21年49歳で若いころ行っていた剣道を再開して、寒い1月の初日の稽古でアキレス腱を切って手術を行って、車いすと松葉杖で外来を行いました。大好きなゴルフも出来なくなって剣道もあきらめました。平成22年から東洋医学の師匠である寺澤捷年先生の外来見学に月に一度行くようになってから、さらに漢方薬の勉強に没頭していきました。最近ではお陰様で県外から来院されて患者さんが55%にもなって来て、全国から来てもらえるようなクリニックになってきました。そこで、10年毎に大きな出来事がある満で59歳の今年に何があるのかと恐れていました。
 今年の4月に私の患者さんである丸山たつやさんが県知事選挙に出馬するというのです。4年位前に総務省から島根県に部長として出向している時に、奥様と共に来院されるようになり、東京に帰られたのちも真面目に通院しておられました。島根県の大半の県議が団結して推薦していて竹下衆議院議員の了解も取っているとのことであったので、王道で気楽に応援すれば良いと考えていました。しかし何と大御所の元参議院議員が反対していて竹下さんもそれに従って別の大庭候補を自民党が推薦するというのです。竹下登元総理夫人は家内の実家からお父様が分家されていて結構濃い親戚となるので毎年竹下事務所に地元と合わせて120万円政治献金していました。竹下の秘書から電話があって今後もお願いしますとのことでしたが、ものの道理が通らないと言ってお断りしました。秘書に私は丸山を応援してささやかな抵抗をさせてもらうと宣言してしまったのです。丸山さんを押している県議のリーダーが力を持っていて大御所が気にくわないというのが真相で、それだけの理由で現役の国会議員や県内の市町村長の大半もそれに従いました。今までの保守王国島根ではここで勝負ありで国会議員の勝ちなのですが、私以外にも改革の魂をもっている仲間がいて、JAと土木業者の大半は丸山さんを応援してくれました。しかし、竹下事務所から電話があった1月の段階では多くの人が丸山さんが勝つのは難しいと考えていたと思います。私が選挙応援をすると言っても患者さんに頼むのは武士道の精神に反していて、この際医師仲間や患者さんに頼むのはやめて、無党派層にターゲットをしぼることにして批判覚悟で丸山さんに同行してテレビ局3局に出ました。選挙期間中にはこのホームページにも応援記事を出してネット選挙も行いました。丸山さんのポスターだけは院内に貼って静かに運動を行いました。色々な友人たちの応援もあって、県議たちとも団結して戦って一人の脱落者もなく選挙戦を戦い抜いて大差で勝つことが出来ました。私の仕事はこれで終わりでただただ選挙に勝った人も負けた人も、島根県がこわれないようにそれぞれが持ち場で一生懸命に活動されることを願うばかりです。負けた国会議員も今まで安泰で自分たちの言うことを何でも聴いていた県民がなぜ反旗を翻したのかよくよく考えて欲しいと思っています。島根県は一部の国会議員のものではありません。もちろん県知事のものでもありません。県民ひとりひとりのものであり、今後も継続して発展させていかなくてはならないのです。その役目が政治家にあり、自分たちのプライドのためにあるものではないのです。国会議員もその秘書も今まで経験したことのない悔しさはよく分かりますが、自分たちが県民一人一人のお陰で存在していることを忘れた時には政治家を辞めてもらわなくてはなりません。よもやこの県民の民意を忘れて選挙中に行った悪意のある行動を行った時には自分たちに跳ね返ってくることを理解して欲しいものです。島根県民は日本で最も所得が低い中でも共働きや多くの工夫を凝らして頑張っています。その民意の声が今回聞こえたのなら、まだ議員としての見込みがあるかもしれません。
 私の59歳の大きな出来事は県知事選挙でした。大変な思いはしましたが、今まで生きてきた中で培った人間力、人を見抜く力、人を動かす力、先見性、人脈、度胸など自分のもっている全ての力を医療に差しさわりのない範囲で出し切りました。もし負けるようなことがあれば5年後くらいに島根から出て東京にいくことも考えました。
でも島根県人は賢い選択をしてくれたので島根に残ることが出来ました。
 島根選出の国会議員を相手に戦った私の平成最後の大仕事でした。この大仕事は島根県にとってはとても意義のある行動であったと今でも信じています。
 次回の大きな出来事は69歳となるのですが、もし生きていたらどんなことが待ち受けているのでしょうか。今から楽しみに待って力をためることにします。