院長の独り言
Monologue

2018.12.31

還暦を迎えるにあたって

平成もいよいよ終わろうとしています。私は2019年に60歳となり還暦を迎えます。さらに言えば平成元年2月3日に結婚して籍を入れましたので結婚30周年という節目の年でもあります。
 父親が47歳で胃がんで逝去したため、もう少し短命と思っていましたがここまで生きてこれたことに感謝しています。さらにもう一つクリニックを開業して20年にもあたる年なのです。私は数え年齢で10歳刻みで大きな変化がある人生を歩んでいます。10歳の時に斜視の手術を大阪医大で行ってから、長男でありながら稼業の建設会社を継ぐのではなく医学の道を志すようになりました。20歳になる年に父が他界しましたが、父の念願でもあった医学部に入学していたことがせめてもの親孝行と考えることができました。28歳になる年に稼業が叔父の放漫経営で倒産して、そこからいばらの道が待っていました。しかし30歳になる平成元年に妻が一文無しで連帯保証人による借金を持つ私の元に嫁いでくれました。この時にどんなことがあってもこの人を幸せにして見せると自分自身に誓ったのが、つい先日の様な気がします。
 32歳でJA厚生連日原共存病院の院長になり、労務管理の難しさを思い知らされて、さらには医療過誤で全国版のテレビにや新聞にも出ました。医療過誤の直後から院長として家族のもとに毎日通ってあやまって1週間で示談にこぎつけました。その頃は医療界はまだ秘密主義でしたが、私は正直に全身全霊で対応することの大切さを学びました。テレビや新聞にも示談が成立していることや誠心誠意対応することをコメントしたので、マスコミも騒ぐことなく一時的な騒動ですみました。出雲市内の200床の先輩院長が膵臓がん逝去されて、急遽医局の人事で38歳になる年に移動となりました。
 40歳になる年に自分自身が経営するクリニックを開業しました。医師にとって40歳代が一番パワーが出ると考えていたので、何とかその年に開業することができました。周囲の開業医の先生から反対も受けましたが、そこはパワーでおしきりました。その時に絶対に周囲の先生方の患者さんを奪うことをしないことを自分に誓って、新しい分野で勝負することにしました。すなわち漢方薬と西洋医学の先端的な治療を融合させた現在の私の医療です。順調に患者さんの数が増えて行って、すぐに一日の外来患者数が100人を超えてきました。
 好事魔多しとはよく言ったもので、50歳になる年の1月に学生時代にずっとやっていた剣道をやってみようと防具も買いなおして社会人の道場に行って稽古をした1日目にアキレス腱を切断してしまいました。外来を休むことなく午後から県中で手術をしてもらって1泊して早朝帰って車いすで外来を行いました。
 それからしばらくして千葉の病院で働いておられる漢方における師匠の寺澤捷年先生の外来見学に月に1度行くようになって、前日は東京で飲み食いして多くの友人も出来て、自分自身の考え方も確立してきてさらに外来数が増加してきたような気がします。
 60年生きて来て自分の持っている力以上の実績を積むことが出来たように思います。よく尋ねられる質問で、どのようにして多くの患者さんが来院されるようになり、さらに一日で200人以上の患者さんを診察して短時間で難解な漢方薬の決定を行って、しかも多くを治すことの出来るシステムを確立したのですかと。
 私の答えは一つです。長年私を支えてついて来てくれている妻や子供たちや職員にひたすら感謝して大切にすること。また、頼って来てくれている患者さんを治してあげるために一生懸命に最大限の努力をすることの積み重ねの延長線上に、自分自身の能力や遺伝子に応じた結果がついてくると。
 東京の銀座で知り合う成功者のほぼ全ての人が、職員や家族を大切に考えています。そこを大切にしない人に成功する資格はありません。還暦を迎えて人生の第4コーナーを回って多くの大波を経験して初めて言える言葉なのです。
 さて、10歳刻みで何かのイベントが出現する私にとっての2019年はどんな年になるでしょうか。1年後のこのブログで紹介したいと思います。自分をきつく戒めます「調子に乗るなよ」と。