「先生、もういつ逝ってもいいですから」
開業して約15年が経過しました。最初の頃から診ている患者さんは、70歳からの人は85歳になっています。85歳あたりになると、ほとんどの患者さんは「先生、もういつ逝ってもいいですから」と言われます。先に夫に先立たれたおばあさんはほぼ90%近くが、そのように言います。これは、精一杯に生きた人間の集大成の言葉といつも受け取っています。厳しい生活を必死に生きて来て、やるだけのことはやってきた結果、自らを捨てることが出来るようになった、完成された人間の尊い言葉と受け取っています。
若い頃は、人より上に立ちたい、より豊かな生活がしたい、同僚よりも上司に認められたい、有名になりたい、1番になりたい、人から信頼してもらいたい、モテたいなどと、他人との相対評価を良くしたい欲望が先に立ちます。それがあって努力をして、自分としては限界まで頑張って初めて、自分を捨てる事が出来るようになるのではないかと考えます。
それは禅でいう無我の境地なのでしょうか。他人を羨んでいたり、自らの人生を悔いているうちはそのような境地には達しないのでしょうが、もうこの先いつ死んでも良いと考えるような年齢になると、かなりの人がその境地に達するのだと医者をしていると勉強になります。
まだ、働き盛りの人間が、自分を捨てる境地に一瞬でもなることは出来ないかと考えてみました。それは周囲の人のよいところを見つけて尊敬して見ることではないかと考えます。自分が正しくて、周囲が間違っているという典型的な考えを捨てて、まずは自分に誤りがあって、周囲の人の忠告が正しいのではないかと、自分を疑って見るのです。その考察を経て、やはり自分が正しい時と間違っている時を見極めるのです。その判断を生きている間中に行えば、無我の境地に達することは出来なくても、少し謙虚で崇高な自分になることもできるし、結果として人から信頼されることも多くなるのではないかと考えます。
最近は日本社会も成熟期に達してきて、人から信頼される行動を取ろうと思って、目立つ行動を取るほど信頼されなくなり、がつがつお金を儲けようと思って行動するほどお金は逃げて行くように思います。そうではなくて、今置かれている立場を十分に理解して、一瞬一瞬をただ人の話に耳を傾けて生きて行くことだけで結果は後からついてくるように思います。
先祖から受け継いできた遺伝子は、自分の脳力を超えて活躍させるようなことはさせません。自分に応じた働きを与えてくれる、それ以上でもそれ以下ではないように思います。一コマ一コマを懸命に陰日向なく淡々と暮らして行くうちに、自分を捨てて自然の風に身を任すことができるようになるのではないかと考えます。自然の流れに逆らわずに生きることで、無理なく周囲と調和して長く生きることができるのではないかと思います。それで最終的に「いつ逝ってもいいですから」と言えるようになるのではないでしょうか。
なかなか、禅の偉いお坊さんのようにはなれませんが、すくなくとも他人を羨ましく思わない、自分さえ良ければよいと考えない、自分の失敗を素直に認めて謝るくらいのことは出来るのではないでしょうか。
欲深い人間である自分を常に監視するシステムを自らの脳に持てば、もっと気楽で爽やかな人生を過ごすことができると、私自身も自分を戒めて生きて行くつもりです。
参考にしてください。