もう一人の医学の師匠
新型コロナウイルス流行下での生活も慣れてきて、少しづつではありますが日本社会が落ち着きを取り戻しつつあります。今後は有効性がある程度認められたアビガンやワクチン接種などによって完全に怖くない病気としてとらえることができると私は思っています。マスクをつける習慣はしばらく続くと思います。今回流行すると考えられているインフルエンザと新型コロナのコラボ感染ですが、私は日本人がこれほど用心深くマスクをつけている限りはあまり恐れることはないと考えています。当院はここ数か月の間も都会からの新しい患者さんを引き受けていましたが、私はこれらの患者さんから新型コロナを移されるという怖さは全くありませんでした。新しい予約は一日18人位で15か月待ちとなっています。その間にコロナが流行したわけですので、そんなに長い間まった患者さんにこちらから断ることはできません。4月頃は患者さんから気を使って受診を控えてくださる人もいましたが、来られる方は2週間は外出せずに来ましたとか配慮される方がほとんどでした。そんな中で8月に日野原という女性が体調不良を漢方薬で治して欲しいと来院されました。私は日野原重明先生の関係の方ですかとお聞きしたところ、かなり近い関係の方でした。守秘義務があるのでこれ以上は語れませんが、日野原重明先生とのエピソードを思いだしたので披露したいと思います。
1990年に小林祥泰先生の元での大学院生活を終えて、多発性に脳出血を発症するアミロイドアンギオパチーという病気の髄液診断を日本で初めて開発して博士号をもらって、当時のしきたりに従って1990年に厚生連日原共存病院という病院に赴任して1991年に院長に就任しました。実家の稼業が倒産して借金もあり、大学院時代は無給でアルバイトで生活していその中で結婚したので、大学病院での出世はあきらめて給与の高い病院に勤務することは自然の流れでした。私の実験を引き継いでくれた長井篤先生が2019年に島根大学医学部第三内科の教授に就任できたことには感慨深いものがあります。
院長に就任して過疎化の進んでいる医師数10人程度の小さな病院をいかに存続させるかは非常に難しいテーマでした。まず行ったことはたまたま寺澤捷年先生の講演を聴いて、今後の予防医学には漢方薬しかないことを確信しました。西洋医学については小林先生に鍛えられていたので、まずまず力をつけていましたがあくまで西洋医学は病気になった人をいかに助けるかが主なので、その患者さんが将来どのような病気になるかはあまり興味を持ちませんし、また現在の専門化細分化された医学の中では、多くの医師は見ている病態さえよくなれば良いと考ていて、現在の訴訟社会では自分の専門の病気だけを診ていれば良いという風潮になるのも自然の流れなのです。しかし、私は自分を頼って来られる患者さんの未来の病気の予防は何とかできないものかと考えました。漢方医学においては、患者さんの病態を根本的に良い方向に向かわすという考え方なので、そこに私の生きる道があると考えて躊躇なく日本一の漢方医である寺澤先生への弟子入りを決断しました。
当時先生が講座を開いておられた富山医科薬科大学に毎年夏休みを利用して押しかけて先生やお弟子さんたちの外来を見学して、漢方薬のノウハウを学び、次の年まで独学で実践しました。5年位富山に通って、先生が千葉に移られてからは月に一度外来見学に通って現在に至っていますが、嬉しいことに小林先生に寺澤先生を紹介したところ意気投合してくださって、今では小林先生も東洋医学会の専門医を取得されて、年に一度寺澤先生が出雲にご来訪されて、医大生にシンポジウムを開催したり、夕方からは講演を行っていただいたりしています。今年も7月のコロナ禍での開催を対面とウエブを使って開催しました。この二人の先生は私の医師としての能力形成に影響した師匠であることは言うまでもありませんが、もう一人隠れた師匠がいるのです。それが日野原重明先生です。院長になった翌年の1992年の平成3年ちょうど長男が生まれる年に、日野原先生のルーツが私が院長をしていた現在の津和野町日原であることを島根大学筋から聞いて、アポイントを取って先生がおられた聖路加病院に会いに行って講演をお願いしました。先生は私の様な海のものとも山のものともわからない若造に真摯に接触してくださって講演を快諾してくださいました。先生の話によると先祖は江戸時代に日原に住んでいて、日原に野をつけて日野原になったとのことでした。そこから萩に祖父の時代に移ってそこに先祖の墓があるとのことでした。余談になりますが日原という土地は江戸時代は銅が沢山取れて天領で石見銀山と共にとても栄えた町でした。私のいた日原共存病院は厚生連発祥の地として、JAの厚生連合会では有名でした。
日野原先生が日原に来訪されるという話を島根医大の副学長を始めとする日野原先生の後輩にあたる京大出身の先生たちが聞いて、4人の教授が呼びもしないのに押しかけてこられることになって、講演からシンポジウムに切り替えて大変なイベントになって教授たちの講演料もあるので大出費でした。経費の関係から島根医大の教授たちは汽車で日帰りしてもらい、日野原先生には一泊して頂いて私は宇部空港への送り迎えも含めて2日間先生に接触することが出来ました。講演で先生は、当時成人病と呼んでいた病名はふさわしくないので生活習慣病に改めると言われていて、現在もその呼び名も理念も引き継がれています。人間ドックを日本で初めて行ったのも日野原先生で予防医学の大切さを訴えられました。何よりも衝撃的だったのは当時の医学の世界で行われていたいよいよ最後を迎える患者さんに血管や気管に管を入れて、家族への最後の言葉や最後の食事を妨害していたことに対して、人間の尊厳を最後こそ守ってあげないといけないと訴えて、自分はボランテイアでお金を集めてホスピスを作るんだと言っておられました。また、医師しか行っていない医療行為を看護師や救急救命士にも出来るようにすることが日本の医療にとって大切なことで、そうすることで医療崩壊を防げると言われました。30年経過した現在日本の医療は先生の言葉そのものになっています。
自分は朝は果物ジュースで昼は牛乳と何か少し食べるだけで、まともな食事は夜だけと述べておられました。 つまり一日のカロリーやたんぱく質やビタミンを考慮された食事をされて105歳まで生きて、ほとんど最後まで現役医師として勤められたのです。
最後にウイリアムオスラー博士の「医療とはサイエンスに支えられたアートである」という言葉が座右の銘であると言われていました。また、サン、テグジュペリの星の王子様からの言葉で「心で見なくちゃ、ものごとは良く見えないってことさ。肝心なことは目に見えないんだよ」という一文を紹介してくださりました。見えなくても大切なことを信じることの大切さを教えてくださりました。満員の会場は感動の嵐でした。そこから日野原先生の教えを胸に一生懸命に医療を行って赤字病院を黒字に出来たのでした。
先生と2日間接しただけですが私はすっかり感化されて、私の医療の支えは小林先生から教わった西洋医学と寺澤先生から教わった東洋医学ではありますが、最も大切なことは人を愛して慈しむことで、そのために何事にもひるまない気高さを大切にして、自らの利を考えずに生活を律して過ごすことの大切さを日野原先生から学んだのです。ちなみに、日野原先生は1992年から退職するまで無給で聖路加の院長を勤められて、聖路加の新病院は先生の指示であらかじめ災害時にも対応できるように待合や廊下を広くして酸素の配管を2千本も引いていたので、1995年のオウムが引き起こした地下鉄サリン事件時に640人の患者さんを救うことが出来たのは有名な話です。
講演に来ていただいた時は81歳でしたが、60歳前にの時に赤軍派によるよど号ハイジャック事件の時の乗客であった時に恐怖を感じて、その時に一度捨てた命なので、今まであった名誉欲は捨ててこれからは世の中の人の為に尽くそうと誓われたそうです。宇部空港で最後に先生をお見送りする時に、「世話になったね。昨夜の真心のこもったアユ料理はおいしかったよ。シンポジウムも素晴らしかったよ。これからも頑張りなさい。何か困ったことがあったら言ってきなさい」と大きなカバンを二つ抱えて去って行かれた姿を今でも忘れることが出来ません。その後、内科学会の研修会などで先生をお見掛けすることはありましたが、先生に声をかけることが出来ませんでした。なぜなら先生と接触した2日間はあまりにも高貴で、私の大切な思い出として心の奥底に留めておきたくて、いかなる脚色もつけたくなかったからです。
2017年日野原重明先生永眠。。享年105歳。日本の医療の前例主義に風穴を開けて、多くの大切な遺産を残してくださった生涯でした。そんなに私が感銘を受けて私の医療の拠り所にしている先生の生活を最後までお世話をされた方が、私の診察を受けに東京から来られたことの不思議な巡り合わせ感じました。天国で日野原先生が私に大切なことを語ってくださった気がして、生涯私が先生の志を忘れない様に長い文章を書いてみました。先生が最後に執筆された本を来院された日野原さんが送ってくださいました。「生きていくあなたへ :105歳どうしても残したかった言葉」が幻冬舎文庫から630円で発売されています。先生の最後の魂が伝わってくる素晴らしい本です。是非とも読んでみてください。必ずこれからの人生のお役に立ちます。