高津川という映画を見て
正月に妻と高津川という映画を見に行きました。島根県の西の津和野町日原という所が舞台でした。私が31歳で院長になった日原共存病院があった町です。そこでの田舎に残って農業を営んだり、JAの仕事をしながら伝統芸能の神楽を継承している人たちの田舎に残って暮らす生き様や、勉強をして弁護士になって都会で暮らす人の考え方などが淡々と描かれていました。また、神楽の好きな高校生がその地に残って神楽を舞う覚悟をするまでの心の葛藤も描かれていました。
私は色々な場面のほとんどが日原で暮らして知っている場所なので本当に懐かしく思いました。少し、当時の心境を振り返って見たいと思います。
大学院での研究も目途が立った時に、母の弟が継いでいた実家の土建会社が倒産したのは昭和62年の暮れでした。社長は行方をくらましていたので、母と共に途方に暮れていました。昭和63年の春に妻と知り合って次の年に結婚することになりましたが、お金が全くなかったので医局の配慮で大学院の無給生活よりは良いJAが経営する日原共存病院に新婚で赴任しました。そこで元号が平成になり、内科医師として一生懸命に働きました。翌年の平成2年には院長となり、JA経営の厚生連の発祥の地である伝統ある日原共存病院の経営のかじ取りをしなくてはいけなくなりました。地元の若い人たちと交流を深めるために車庫でバーベキューを定期的に行ったり、地元のカラオケ余芸大会にも出て下手な歌をうたったりして徐々に住民に溶け込んでいきました。夏の朝起きてみると台所にアユが置いてあって誰がくれたかもわかりません。日原では私に食べてもらいたくて届けてくれていて、自分の名を名乗る人はいません。バレンタインデイにはおばあちゃんの患者さんから山ほどチョコレートをもらい、季節季節には野菜が玄関に置いてあったり、大変心のこもった施しを受けていました。生まれ故郷での最後は倒産という悲惨な状況を母が味わっていたその傷心を日原の住民が癒してくれました。私はこの地に永住してもいいなと思っていました。
しかし、平成9年に大学院での仕事を指導してくださった寿生病院院長の藤原先生が膵臓がんで逝去されて、急遽そちらの病院に転勤しなくてはいけなくなり、日原での生活は終了したのでした。その後日原共存病院2代の後輩院長の就任を得て、過疎化の波にのまれて倒産しました。
私がいたころは時代も良かったのですが、過疎化に向かうその地域の組織はいつの日かどうしても縮小化することはやむを得ないのですが、その決断を遅らせた時には組織は崩壊してしまいます。
人の流れはどうしても田舎から都会に向かいますが、都会の人は良いものや面白いものや役立つもの、綺麗で感動的なものには労を惜しまずに田舎に来てくれます。私が平成11年にこのクリニックを開業した時に、この田舎の島根に何とか都会から来院してくれるような技術を開拓したいと漢方薬に関する修練を積んできました。最近やっとアトピー性皮膚炎や神経症、肥満症、高血圧など西洋医学に不満を持つ人達が集まってくれるようになりました。
田舎にも素晴らしいものは沢山あります。私の故郷の都神楽団の舞は芸術品です。毎年9月には都神楽団を呼んでホテルを借り切って4演目4時間の演舞をを行います。興味のある方は今年は9月13日日曜日10時から出雲ウエルシテイーで行いますので、無料で参加してください。
このままでは東京に人口が集中して田舎の国土を守れなくなります。何かをしなくてはいけないのです。その時に都会の人がどんな生活をしていて、どんなことを求めているのかを考えに考え抜いて、常に行動を起こしていくうちに都会への一方通行ではなくて、都会からも移住したり観光に来てくれたりして両方向の交流が出来るのではないでしょうか。