水清ければ魚すまず
最近世の中が杓子定規になりすぎているように感じているのは私だけでしょうか。例えば、私は全国に講演に行きますが、メーカーの主催で行く場合に講演前の食事はごちそうになってはいけません。講演後には構わないのですが大抵は飛行機の時間もあるので急いで弁当ですませます。講演前にメーカーの人間と食事をする場合は私がおごります。また、講演スライドは本当に公正なものであるのか全て事前にチェックされます。また、接待は当然亡くなったのは問題ないのですが、クリニックにもって来ていたサービス品のカレンダーやボールペンまでが禁止となりました。勉強会での弁当もきちんと聞いている人間に限定された数でないといけないので、当院は早出遅出で対応しているので中止にしてメーカーの人間と会うのをやめました。
世間に目を向けてみると、国会で桜を見る会に誰を呼んだかなどどうでもよいことをコンポライアンスの議論として永遠にやっています。確かに必要なことかもしれませんが、いい加減なところで後は国民の判断にゆだねるべきではないでしょうか。医療費の問題や少子化問題、日韓問題、景気対策の問題など他に議論する問題が山積しているはずです。
元々日本人は世界的にも倫理観が強い国民です。色々と悪いことをする人もいますが、他の国よりははるかに規則を守る国民です。私の患者さんで中国から日本に嫁に来て現在はツアーコンダクターをやっている人が言っていましたが、中国人は並ぶ習慣が全くなくて中学生などが日本に集団で旅行に来た際に、最初は全く並べなくて無茶苦茶だった子供たちが、日本で1週間位過ごすうちに最後には無意識にきちんと並べるようになることを教えてくれました。それだけ日本人の生活は規則正しく、倫理的であるということなのです。それなのにさらに日本人を規則規則で縛っていくのは、日本人の柔軟性をそぎ落としていくのではないかと思います。
江戸時代に田沼意次という老中がいました。徳川吉宗に見いだされて次の9代、10代将軍に仕えて600石から最後は15万石まで加増された老中ですが、米の経済からお金の経済に変えて世の中は大いに潤って住民も喜んでいたのですが、貨幣経済になったのでわいろが横行して反対派から攻められて辞任しました。そこで松平定信が白河藩から老中になって、誠に清廉潔白な厳しい元の政治に戻しました。そこで人々から不満が続出して次のような川柳を読まれています。「白河の清きに魚も住みかねて、もとの濁りの田沼恋ひしき」と。
孔子の論語に「「水清ければ魚すまず」と。全く濁りのない清い水の場所には鯉などの多くの魚は敵にすぐに見つかって食べれれるので住まないということなのです。せいぜいヤマメとアユくらいしか清流では住めないのです。
誠に清廉潔白に暮らしている人はただそれだけで大きな仕事はできません。つまり相対評価の中でしか自分を高めることが出来ないからです。世の中を変えて改革していく人は絶対評価を頼りに上を目指していくのだと思います。今までの慣例に気を取られて護送船団方式に横並びで経営していては、日本が今後の人類初の高齢化社会を生き抜くことはできないと思うのは私だけでしょうか。規制緩和を積極的に行って、国民が自由にたやすく起業できるようにして、なるべく役人の仕事を減らして、後は規則を破ったものは法律で裁くようにすれば良いのではないでしょうか。
倫理的にどうのこうので社会から抹殺して二度と這い上がれないような現在の風潮はいかがなものかと私は思います。人間は強いものではありません。むしろ弱い人間が大半です。失敗しても失敗しても何度でも這いあげれるような足腰の強い寛容な社会であって欲しいと願っています。